人生のランディングポイント(50歳になりました) #ぶろぐのぶ

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さて、「#ぶろぐのぶ」、今月から趣向を変えて、みんなで同じお題に取り組んで記事を書こうということにしました。

【心・体・形】 2016年8月の #ぶろぐのぶ お題と作品
【心・体・形】 2016年8月の #ぶろぐのぶ お題と作品
スタートして3か月目を迎えました「#ぶろぐのぶ」。今月から形式を新たにいたします。新しい「#ぶろぐのぶ」のルール レギ...

今月8月のお題は、ぺこ(@harapekokazoku )さんが出してくださったこちら。

「心」「体」「形」

どのような記事になりますことやら。さて、参りますか。

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50年、生きてきました

50歳になりました
8月24日に50歳になりました。この世に生を受けて50年、18,262日ほどになりますでしょうか?あっという間の50年でありました。

この50年、一体ぼくは何を成し遂げ、何を形にしてきたのでしょう?

人生に対して明確な「目標」を持ち合わせていませんでした。幼い頃から何かになりたいという夢も持っていませんでした。将来の設計をする、それに向かって努力をするという本能、もしくは、能力がぼくには欠落していたのだと思います。

小学生のときから比較的、成績が良かったということもあり、一生懸命努力したという経験がありません。逆に、一生懸命努力しても報われないことの方が多いのだという冷めた考えを持った少年でした。

中学受験をしました。ある国立大学の附属中学校を受験しました。自分から望んで受験したわけではなく、両親から強く勧められて受験したのです。

ぼくの両親には学歴のコンプレックスがあったに違いありません。社会に出てからの学歴の必要性を強く感じていたのでしょう。小学校の5年生から半ば無理やり塾に入れられ、勉強させられました。

塾に通うのは苦痛でした。電車に乗って隣市まで行かねばならなかったからです。塾で勉強するよりも、友人たちと草野球をして遊んでいたかったんです。

小学校の校庭で草野球に興じていると、母が「塾に行きなさい!」と呼びに来るような家庭環境でした。

両親は、勘違いをしていたのだと思います。自分の息子に対して勘違いをしていたのです。なまじ成績が良かったものだから、塾に通わせると附属中学校に行けるのではないかと、勘違いをしていたのだと思います。

入塾テストでたまたま成績が良かったのも勘違いに拍車をかけたのだと思います。A、B、Cと成績ランクで分けられていたクラスの上の「SA」クラスに入ることになりました。そのことも、両親を無駄に勘違いさせた原因になっています。

小学校の高学年という、カネには変えられない貴重な時間。友人たちと草野球をしたかったし、もっと釣りに行きたかったし、もっと山から流れ出る川を遡って探検したかった。

そんな貴重な時間を「中学受験」という「余計なもの」で失うという経験をした上に、受験に失敗。「努力は必ずしも報われない」という実体験を小学校6年生にして経験してしまったぼくは、それ以降、明確な目的を持ち、それに向かって努力をするということの虚しさしか感じないようになっていました。

遠くの目標よりも目先の試験。特に勉強せずとも定期テストの点数はそれなりに良かったし、冷めていたわりにはマジメだったし提出物もキチンとしていたことから、大した努力をすることもなく、公立の進学校に合格しました。

ぼくが生まれた昭和41年という年は「丙午(ひのえうま)」にあたり、前後の学年に比べて極端に人数がが少ないということもあり、高校受験の厳しさはさほどでもありませんでした。

それに加えて、就職したときはまさに「バブル」の時代。履歴書を提出し、面接を受けるだけで、東証上場の大手企業からいくつも内定がもらえるという、古き良き時代でもありました。

目的もなくさまよった20代

大学を出て就職したのは、就職活動中に一番最初に内定をくれた企業でした。特に深く考えもせず、その会社に決めました。早々と就職活動を終えて、バイクで北海道へ旅に行きたかったからです。

大学4年生の10月、会社の内定式まで、バイクで北海道を旅しました。様々な人に出会いましたが、ある宿を経営している人に感銘を受けました。

その人は、若いうちに努力をし、辛い仕事にも耐え、お金を貯めて北海道に土地を買い、宿を経営していました。お客さんのいない時には気ままにツーリングに出かけたり、温泉に入りに行ったり、自由な生活を満喫していました。

その人の若い頃の苦労話を聞き、そういう生き方もあるのだと、目から鱗が落ちる思いで聞いていましたが、ぼくは大学4年生、まもなく会社の内定式に出席しなければならない身の上でした。

そのまま北海道に居座り、自由な時間を満喫したい、何かやりたいことを見つけたい、夢を探したい。そう思ったものの、世間体を気にする性格ゆえ、内定式の前日に大阪へ帰り出席。

結局、春になってその会社にそのまま就職し、その会社で夢を見つけることはありませんでした。

目的もなく働くということが、どんなにか無意なもであるか?

結局、3年でその会社を辞め、何度か転職をした20代でした。

努力を知った30代

30歳を目前に結婚し、長男が生まれたとき、無職でした。あまりに仕事の内容が薄く、誰にでもできる仕事。ただ単に生きるためだけにカネを稼ぐということに嫌気がさし、辞めてしまったんです。

結婚して長男が生まれようというときに、何をやってるんでしょうね?夢を持たなかった少年は20代で夢を求めてさまよい、30代になってもふらふらしていました。

嫁さんがあきれ返って実家に帰らなかったのが不思議です。

さすがに嫁さんと長男を養っていかなければならない、何か仕事をしながら手に職をつけられないか?

当時、Windows 95が発売され、一般家庭にもパソコンとインターネットが普及し始めた頃でした。我が家にもIBMのAptivaというパソコンがあり、ISDN回線でSo-netのアクセスポイントにダイアルアップ接続して、ネットサーフィンを楽しめるようになっていました。

小さい頃から機械物を触るのが好きで、パソコンの設定やインターネット接続の設定は得意な分野でした。

そういうことを仕事にできないものか?

ネットサーフィンしながら見つけたのは、小さなIT会社でした。一般家庭や中小企業相手にパソコンやインターネット接続の設定を請け負ったり、小さなシステムを構築している会社でした。

その頃、ホームページを持っている会社は、大企業を除いてはまだ珍しく、会社規模のわりには最先端なことをしている印象を持ち、ここで働きたい、そう強く思ったのです。

その会社に電話をし、面接を受けて、採用してもらいました。

最初のうちは、パソコンやインターネット接続の設定の仕事をしていましたが、プログラミングに興味を持ち、Microsoft Accessで作られた小さなシステムの保守を任されました。

人が書いたソースコードを読むということは、プログラミングの習得の早道です。なぜ動くのか、なぜそう書かねばならないのか、目の前のソースコードを見れば全て教えてくれるのです。

そうやって保守をしているうちにAccess VBAをなんとか触れるようになり、他の言語にも触手を伸ばし始めました。

ちょうどその頃は、MicrosoftがASP(Active Server Pages)と呼ばれるVBAもどきのWebアプリケーション用の言語をリリースし、Windows ServerのIIS(Internet Information Server / Service)で、データベースを利用した動的なWebコンテンツを提供できるようになってきていました。

一方、今ではブログやサイトを構築する上で当たり前の技術、PHPも出始めた頃で、パソコンにLinuxをインストールしてApache + PHP + MySQL / PostgreSQLの環境を作って、プロトタイプのアプリケーションを作ったりしていました。

今のように、インターネットや書籍の情報、特に日本語の情報が少なく、環境構築やプログラミングには大変苦労をしました。でも、ひとつひとつ問題を解決していくことがとても楽しく、苦労を苦労とは思わずに、夜が更けてもパソコンに向かう日々を送っていました。

目的もなくさまよっていた20代とは違い、やりたいことを見つけ、今までの借りを返すかのごとく努力をしていた30代でした。

心の病で苦しんだ40代

仕事は楽しかったです。しかし、給料は安い。家族を養うには心もとない収入。

3人の子どもを抱えて、嫁さんには苦労をかけました。より良い給料を求めて転職をしようと考えたことも多々ありました。

しかし、小さな会社を大きくしたいという社長の夢を自分の夢のように感じ、その会社を辞めることはできなかったのです。やりたいことをやらせてくれるという環境を捨てがたいということもありました。

何より、ぼくが辞めてから会社が大きくなるようなことがあったら悔しいじゃないですか?

そう考えると辞められなかったんですよね。

30代から40代になり、急に体の無理がきかなくなったように感じました。長男が小学生になり、少年野球チームに入って、ぼくもコーチとして入部した頃と重なります。

朝が起きづらい、夜眠れない。体はキツイ、いつも怠い。

仕事で無理を重ねた上に、週末の少年野球チームの練習や運営の疲れが体にたまっていっていたのでしょう。体の疲れが心の疲れにつながり、あるとき、一気に崩壊しました。

電車に乗れなくなったのです。

朝、ホームの先頭で電車を待っていると、線路に吸い込まれそうになっている自分に気がつき、怖くなってホームに立てなくなりました。

クルマの運転もできなくなりました。大きな通りの右車線を走っているときに、急にハンドルを右に大きく切りたい衝動に駆られたのです。

中央分離帯にクルマごと激突したら?反対車線に飛び出して対向車と正面衝突したら?

死ぬかもしれない、死にたい、そんな気持ちがだんだんと心の中で大きくなっていき、いたたまれなくなっていきました。

これはヤバいのかもしれない。そう感じて会社の近くの心療内科に予約の電話をしたら、初診は約1か月待ち。

よくぞその間、死ななかったものだと思います。

診察の結果は「うつ病」。抗うつ剤と精神安定剤、睡眠導入薬のお世話になる生活になってしまいました。

40代の10年の間に休職2回、合計1年ほど、うつ病が原因で休職しています。一度折れてしまった心はなかなか元に戻りません。薬に頼る生活、不安な毎日でした。

振り出しに戻った50歳

人生の着地点
今現在、うつ病はほぼ寛解しています。未だに薬は飲んでいますが、調子を落とさないために飲んでいます。たまにしんどくなって動けなくなることもありますが、ほぼ、発病前に戻ったと感じています。

いっときは、抗うつ剤を処方可能な最大量飲んでいました。一種類の抗うつ剤では効かず、何種類もの薬を飲んでいたこともあります。当然、副作用もハンパなく、副作用を抑えるために別の薬を飲むという、もはや人間ではなく人体実験のための標本になってしまったか?というときもありました。

よくなってきたのは、やはり、嫁さんと子どもたちの支えがあったからこそです。うつで苦しんでいるときに嫁さんと子どもたちに見放されていたら、今頃ぼくはこの世のものではなかったと思います。

最近、今までに増して特に調子がいいです。6月にNHKスペシャルで放送されていた「キラーストレス」という番組を見て、こちらの記事を書いてから、別人になったかのように感じます。

自分に癒しを与える100のリスト
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NHKスペシャルで放送されていた「キラーストレス」という番組を見ました。ストレスを受けたときに人間の身体がどのように反応するのか...

うつという病気は誰もがなる可能性のある病です。しかし、心の病であるがゆえに、なりやすい人、なりにくい人がいるのは確かです。ぼくはどちらかというとなりやすい傾向にあるのではないかと思います。

うつに落ちるときの心の様子、思考パターンというのが自分でも分かってきました。過去の記憶、将来の心配がぼくのうつの原因です。

夢と目的を持てなかった過去のコンプレックス、将来に対する漠然とした不安。このまま消えて無くなるのではないかという心配。

そういった思考がぼくをうつへと導くのです。

最近は、楽しいことだけを考えています。どうすれば楽しくなれるか、自分は何をすれば楽しくなれるか、そのことだけを考えています。

無為に生きてきた50年でした。でも、30代のときに自分なりに模索して、知識と知恵と勇気を得ました。嫁さんを得ました。3人の息子を得ました。これ以上、何を求めればいいでしょう?

うつで棒に振った40代でした。でも、それがあったからこそ、再びそこに陥らない知恵を得ました。

次の10年、60歳までに何ができるか何が待っているか、未だ分かりません。今までの人生と同じように、目の前のことを片付けながら生きていくのだと思います。

どこに人生の着地点を定めるか、まだ決められそうにありません。たとえ形になるものができなかったとしても、死ぬまで笑って楽しく生きていける方法を考えます。

WEBのシステムを作ったり保守したりするSE/プログラマというものをしています。

ブログやってますがブロガーではありません。週末WEB随筆家です。
まろと呼んでください。

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